そういえば、なぜ瞳孔不睨で正中心感覚が芽生えたのかについて書くのを忘れておりました😐💦
このあたりも掘り下げてみましょう。
まず言えるのは、脳、心、身体のエネルギー処理が「散漫な拡散」から「統合」へと切り替わってゆくように感じることです。
👺焦点の解放による「脳の全域化」
通常、私たちは対象を特定視、凝視することで情報を得ようとします。凝視は脳の特定部位を過剰に働かせ、力みや緊張を生みます。
瞳孔不睨の時、主な注意の矛先は無限遠、全身の細やかな均等感覚、或いはそれを保ちつつ、その時の練功の感覚となっています。この状態はテトラヒドロングリッドのようです。
「居ついた視線」による脳(身体)の局所的な興奮は鎮静し、脳全体のネットワークが同調を始めます。この鎮まりが結果として幾何学的な秩序とに似た作用をもたらすと思われます。
👺視覚のフラクタル化
通常の視覚は、見たいものにピントを合わせることで、その周囲を背景、ノイズとして切り捨てます。しかし、焦点を無限遠に置いた不睨の状態では、中心も周辺も同じ解像度で脳に届きます。
その点がフラクタル的であると思います。フラクタル図形は、どの部分を拡大しても全体と同じ複雑さが現れます。
視覚情報を「人」「河童」「ムキムキ」「万札」といった意味のある単位で区切るのをやめ、情報の濃淡、光の密度として処理すると、視野のどの断片を切り取っても、全体と等価値な「情報のパターン」として扱えるようになります。そんな危ない技術でもありますが、意味の縛りから脳を解放する高度な技術です。
「光の密度」として空間を捉える時、脳は対象物との物理的、心理的な距離による重要度の差を無効化します。
フラクタル構造には「特定のサイズ」という概念がありません。遠くの山も、目の前の塵も、等しく光の粒子の集まりとして処理されます。これにより視覚情報が特定のスケールに縛られなくなり、脳内では視野全体がひとつの巨大な、自己相似的な情報ネットワークとして統合されます。これは視覚のフラクタル化といえます。
👺非線形な情報処理への移行
線形的(Aを見る→次にBを見る)な処理は通常行われている視覚確認と思います。しかし、光の密度として空間を捉える時、全体を一括、同時並行的な処理が行なえます。
特定の幾何学的なグリッドを意識しなくても、情報が密度として流れ込むとき、脳はその中から自然に再帰的なパターンを見出し始めます。
意味や名前を剥ぎ取られた光の情報は数学的なカオスに近い状態となりますが、その中には高度な秩序が隠れています。焦点を開放することで、脳はこの情報の自己相似性を感知できるモードへと切り替わるのではないでしょうか。
👺ベクトルの反転と収束地点
物質的世界を一時捨てることでもあり、その奥の次元が現れて来やすくなります。
物理次元の、外を追うことをやめた視線はエネルギーのベクトルを反転させます。情報は「取りに行くもの」から「自分の中に流れ込んでくるもの」に変わり、その収束ポイントとして正中心感覚が自然に自覚されるようになるのではと考えました🙂
「光の密度」を観始め、全くの闇も同時存在していることを感知することになります。そしてこの練功は膨大なエネルギーの揺らぎとしても捉え直す作業に近いかもしれません。
猫さんも練功-(ΦωΦ)-