二人狂い。感応精神病。一過性妄想性障害。集団幻覚。
一時的、一過性、難治性のものも含め、誰にも起こりうる現象である。
2003年頃。私には姉がいる。
当時、彼女は郡山市で仕事をしていた。
そして恋愛的に「かなり好きな人」がいた。
しかしお相手は別の方と結婚され、姉の失恋の痛手は相当なものだった。
その頃母と共に、姉のところへ訪ねていたのだが…
母の話。ある夜中、姉が一人で泣いていた。
母が心配し、声を掛けると泣きながら、
「これ…私が産むはずだった赤ちゃん。ママも抱っこして上げて。」
切迫した表情で、居る筈のない「赤ちゃん」を手渡してきた。
その時母の耳には新生児の泣き声が聞こえ、そのまま受け取り抱っこすると、実際にずっしりと重みを感じたという。
翌朝になり、私はその話を聞いた。
胸が痛む迷妄の話。
その幻自体はその夜限りのことである。軽い変性意識状態、無防備な被暗示的状態、同調を受け入れる状態、感情共鳴を許す状態。
そのような意識下では、ざらに起こりうる。
ネガティブ状態が生んだ一種の幻覚状態もあり、そしてそれを人に波及、感受させることもある。
だからある程度の瞑想の深まり、というものには注意が必要なこともある。開かれた意識、細胞から、抑圧や遺伝記憶、集合的無意識領域の暗い側面が現れてくることもあるからだ。
それをクリアリングしながら乗り越えていく。
それはひとつの良い方法ではある。
しかし、意識世界というものは本当に計り知れないほどのカオスで、この上ない至福も体験すれば、地獄に叩き込まれるリアリティに苦しむこともある。
どちらも経験した。
そういう場合、禅の智慧は、役立つ。
神秘体験の全ては、あ、そんなこともあるな。とやり過ごすだけである。
正中心練磨のメソッドも、似たところがある。
ただ細やかに身体感覚の精妙を感じ、微調整のバランスを取りながら、深々と行っていく。
様々なことは起こるが、まあ、それはそれ。
私は高尚でもなく、悟りたい思いや、能力を求めていたわけでは無い。
生が危うくなることの繰り返しに、困っていただけだ。
でもやってると、ほんと楽しいんだよね^^
今、大変ありがたいことを学んでいる。
本来皆が持つ、身を護る「オーラ」や強い生体磁気のようなものを持たない自分である。違う護り方を知り、それでいて現世の様々にやられてしまわないように、ここで自己実現が出来るように。
何とかなる、一休宗純が遺した言葉を思い出しながら。